2015年7月30日木曜日

The Manual of Bean Curd Boxing: Tai Chi and the Noble Art of Leaving Things Undone

Paul Read (2013)

Bean Curdって何だ?ということで検索すると,「豆腐」の英語訳らしい。ということは,Bean Curd Boxingを強いて訳せば「豆腐拳」か。何やら期待させるタイトルで購入しました。読んでみれば,筆者のフランクな文章のために,肩の力を抜いて読める。内容は,至ってタイチー(太極拳)から得られる心と身体の智慧について,分かりやすく丁寧に書かれている。ただ,特に斬新なアイディアや考えが書かれているわけではない。

だからそもそも,なぜタイチーの本とせずに豆腐拳としているのか,読んでもイマイチ伝わってこなかった。この内容なら,タイチーで良い。強いて名称を変えて新たな概念を提唱するわけだから,その新しい概念を提唱する意義あるいは新規な機能のようなものがないと,単に概念を増やしているだけで単なる水増しでしかない。

あえて読み取れば,豆腐拳とは,生活術そのものであり,タイチーはその生活術を身に付けるたけのアプローチ(方法論)である,といった具合か。でも,なんでその生き方指南の術を豆腐「拳」(?)(Boxing)とするのか,そこんところがイマイチ,ピンと来ない。

でも,決して内容的には悪く無い本です。

内容とは別に,面白いのは,この本は,筆者による半ば自費出版的なものなのか,たしかにISBNは付いているけれども,どうも正規の書店による販売ルートではなく,自費製作っぽいのです。Paul Readのウェブサイトを見れば,自分のタイチーに基づく考えや作品について,主にウェブ上でいろいろと情報を発信していて,他には電子書籍やCD,DVDなどを製造販売しています。

だからでしょうか,配送されてきた本,閉じ方が右左逆でした(笑)。まぁ,開いて読むには苦労はないのですが,扉の割り振りだとか,ページ番号やヘッダーの文字の位置なんかが本の内側(閉じてる側)に来ていて,なんか奇妙な本だなぁと思ったら,閉じてるところが左右逆なのに気がつきました。というわけで,非常にレアな本です。

2015年7月15日水曜日

サボタージュ・マニュアル

米国戦略諜報局(OSS) 越智啓太(監訳・解説) 国重浩一(訳) 2015 北大路書房

サボタージュ(Sabotage)とは,①労働争議中に労働者が機械・製品などに故意の損傷を加えること。②妨害・破壊行為,という意味です(研究社新英和中辞典)。

ネットで一時話題になったらしい本マニュアル(私は知りませんでした),何が面白いかといえば,敵国(占領国)にダメージを与えるために市民ができることを,ごくごく丁寧に事細かく説明していること,その大分は物理的な機械やラインなどの破壊行為だけれども,最後の特に人的な要因による組織の破壊行為は,笑える。

そこに書いてる破壊活動・妨害活動は,今まさに現代の組織体の中でも頻繁に行われているものであり,つまりは,いかに自組織内部に「レジスタンス」が多いかがよく分かります。

と,このように(私のように)たぶん,多くの人がこの本を読んで首肯するのだろうけれど,しかし,多くの人が首肯するということはその人たちはこのサボタージュ・マニュアルに書いてあるような行為をしていないと主観的には認識しているといえる。しかし,よく考えてみたら,そんな大多数の人が主観的にはこういう破壊活動・妨害活動をしていないのなら,世の中もっとうまく回っているはずなんだけれど,実際はそうではない。むしろ,そういう多くの人たちが,自分以外の人たちがいかにここに書いてある破壊活動や妨害活動をしているか,嘆いているだろう。

つまりは,人というのは,自分のことは棚に上げて,まるで問題が無いかのように認識するものなのだ。問題を引き起こしているのはあくまで自分以外の人たちである,少なくとも自分は平均以上のまともな人間であると,強く信じている。そうやって多数の人が思い込んでいる。

この本は,「ああ,まるでうちの会社だ」「こういう人いるよね~」という,自分のいる環境を嘆いたり,他者をおもしろおかしく批判・批評したりする材料に用いられることが多いかもしれない。しかしそうではなくむしろ,知らず知らずのうちに,つまり非意識的(非意図的,自動的)に,自分自身もこの破壊活動・妨害活動に荷担していないかを考える材料にしてみてはどうだろうか。

あなたも知らないうちに,レジスタンスになっているかもしれません。

2015年7月9日木曜日

日本一わかりやすいマインドフルネス瞑想

松村憲 2015 BABジャパン

昨今,マインドフルネス関連本が,まるで雨後の竹の子の如く,出版されています。それはそれだけニーズが高まっているということもありますし,一方で,ある種のブームなのでしょう。グーグルの社員もやってるらしい!というのがその火付けだったかもしれません。

本書は,そんな中でも,読みやすさ取っつきやすさを最大限に配慮した,ごくごく実践的なマインドフルネス瞑想の本です。タイトルにある「日本一わかりやすい」というのは,まぁ,厳密に比較しているわけではないでしょうから何とも言えませんが,いずれにせよ,その想いとしては,わかりやすさを重視していて,実際にわかりやすい内容になっています。厳密な理屈や背景は文中にときどき触れる程度に抑えた,「入門中の入門」的な本です。あとはやはり,これは著者の人柄が滲み出ているのか,全体に,柔らかい,優しい,暖かい感じのする本です。

なので,とにかく,まずはそのドアを開き,「こういうのがマインドフルネスか~」という体験をしてみることのきっかけ,とっかかりとしては,とても良い本だと思います。そして何かこういう方向性のアプローチ(つまり瞑想的なアプローチ)が肌に合うようなら,一つ一つ,関連本を手繰っていけば良いでしょう。マインドフルネスは奥が深いですので,そういうのを深めていくことも楽しみつつ。その一端に,拙著『空手と禅』も是非どうぞ。

2015年7月1日水曜日

火星に住むつもりかい?

伊坂幸太郎 2015 光文社

最初の4分の1ぐらいのところで,もう読むのを止めようかと思いました。そのくらい,読むに耐えない暗黒描写。人間の暗部を,よくもまぁこんな風に文字にできるなというぐらい,えぐい。

そこで一つ思ったことがあります。小説は,映画よりも,よっぽどリアルだ,ということ。

これはすでにどこかの誰かが気がついて,映画論とか小説論とかで語られている定番な事実なのかもしれないけれど,映画ってのは,俳優が演じますね。で,たしかに,良い演技悪い演技ってのがありますが,俳優の良い演技に加えて,監督や脚本家によるリアルな撮影と演出,実写であるという事実にさらにCGのような映像技術も加わったリアルな映像が後押しして,その映画に感情移入できればかなりリアルです。これは間違いない。

ですが,それでも俳優は俳優です。我々は俳優であることを暗に知っています。つまり,これは演技である,虚構である,フィクションである,ということをメタには分かっているわけです。映像がリアルな分,俳優が演ずることで虚構性が担保されています。

一方,小説はどうでしょうか。小説は,活字を追って読み進め,その活字から意味を読み取り,個々人の中で心象として物語を,場面を,イメージ化していく。刺激は,活字だけです。俳優は,いません。ですから,心の中に構築される世界に限れば,フィクションという記号はなく,極めてリアルです。頭の中のイメージに出てくる登場人物は皆,その人物本人であり,決して俳優の演ずる「役」ではありません。

もちろん,これは小説だ,本だ,単なる活字だというメタ認知が働けば,心的に構築された世界は虚構として崩れ去ります。ですから,映画も小説も,冷静に考えればどちらも虚構です。では,一体どちらがリアルに心に直接刺さってくるかというと,受動的に映像として受け止める映画よりも,むしろ,能動的に活字からイメージを構築する小説の方が,心理的には「来る」のではないかと,思ったわけです。

それは,登場人物が俳優の演ずる「役」でしかない映画と,登場人物が登場人物そのものの「本人」である小説との,違いです。

加えて,映像という視覚情報に頼った映画は,多くの情報がすでに用意されている分,脳があんまり働いていない気がしますが,活字という文字情報にしか頼っていない小説は,脳をフル回転して足りない視覚イメージを作り上げている(補っている)分,余計にリアルに「脳」が感じるのではないかと思うのです。


というわけで,伊坂小説は,心に痛い。でも,そこんところを超えて,ちょっと我慢してでも読み進めると,それなりに回収してくれます。だから,僕と同じように途中まで読んで心が痛くなっても,だまされたと思って最後まで読んでみてください。それなりに,救われます。