2015年7月1日水曜日

火星に住むつもりかい?

伊坂幸太郎 2015 光文社

最初の4分の1ぐらいのところで,もう読むのを止めようかと思いました。そのくらい,読むに耐えない暗黒描写。人間の暗部を,よくもまぁこんな風に文字にできるなというぐらい,えぐい。

そこで一つ思ったことがあります。小説は,映画よりも,よっぽどリアルだ,ということ。

これはすでにどこかの誰かが気がついて,映画論とか小説論とかで語られている定番な事実なのかもしれないけれど,映画ってのは,俳優が演じますね。で,たしかに,良い演技悪い演技ってのがありますが,俳優の良い演技に加えて,監督や脚本家によるリアルな撮影と演出,実写であるという事実にさらにCGのような映像技術も加わったリアルな映像が後押しして,その映画に感情移入できればかなりリアルです。これは間違いない。

ですが,それでも俳優は俳優です。我々は俳優であることを暗に知っています。つまり,これは演技である,虚構である,フィクションである,ということをメタには分かっているわけです。映像がリアルな分,俳優が演ずることで虚構性が担保されています。

一方,小説はどうでしょうか。小説は,活字を追って読み進め,その活字から意味を読み取り,個々人の中で心象として物語を,場面を,イメージ化していく。刺激は,活字だけです。俳優は,いません。ですから,心の中に構築される世界に限れば,フィクションという記号はなく,極めてリアルです。頭の中のイメージに出てくる登場人物は皆,その人物本人であり,決して俳優の演ずる「役」ではありません。

もちろん,これは小説だ,本だ,単なる活字だというメタ認知が働けば,心的に構築された世界は虚構として崩れ去ります。ですから,映画も小説も,冷静に考えればどちらも虚構です。では,一体どちらがリアルに心に直接刺さってくるかというと,受動的に映像として受け止める映画よりも,むしろ,能動的に活字からイメージを構築する小説の方が,心理的には「来る」のではないかと,思ったわけです。

それは,登場人物が俳優の演ずる「役」でしかない映画と,登場人物が登場人物そのものの「本人」である小説との,違いです。

加えて,映像という視覚情報に頼った映画は,多くの情報がすでに用意されている分,脳があんまり働いていない気がしますが,活字という文字情報にしか頼っていない小説は,脳をフル回転して足りない視覚イメージを作り上げている(補っている)分,余計にリアルに「脳」が感じるのではないかと思うのです。


というわけで,伊坂小説は,心に痛い。でも,そこんところを超えて,ちょっと我慢してでも読み進めると,それなりに回収してくれます。だから,僕と同じように途中まで読んで心が痛くなっても,だまされたと思って最後まで読んでみてください。それなりに,救われます。

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